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2014/10/20 死生観について [考える]

「死生観」とは、生き方や死に方に対する考え方という意味のようです。

小学校低学年のころ、飼い猫が死んだんです。
その時の衝撃といったら今でもよく覚えています。
子どもの私にとって、一生という時間はとてつもなく長い長い時間というイメージでした。
おばあさんははるか大昔に生まれ、私の生まれるずっと前から、すでにおばあさんだったと信じていました。
ですから、子猫でもらってきた飼い猫が、こんな短期間で死んでしまうなんてことは、自分の中ではあり得ないことだったのです。

それから時は流れて、40歳になったとき、初めて自分の人生が半分終わったという実感がわきました。それまでは、未来は無限大に近いというイメージだったのですが、このころから人生の残り時間が限られているということを意識し始めました。それから先は、1年が過ぎるのが速く感じられるようになりました。

生物は死ぬことが運命づけられています。どんなに知恵をしぼっても、死なずに済む方法は誰にも見つけられませんでした。死なない唯一の方法は、生まれてこないことです。生まれたばかりの赤ん坊を抱く母親に「この子もいつかは死ぬのですね」と言ったら、恐い顔で睨まれるでしょうけど、これは真実なのです。

医学を学んで知ったことのひとつに生命のメカニズムがあります。
生物は、核酸(≒遺伝子)という化学物質からタンパク質が作られ、体ができあがっているということです。
そして体の中では核酸の遺伝子情報をもとに作られた実に様々な化学物質が行ったり来たりしながらシグナルを送りあい、生命を維持しているのです。驚くべきことに、悲しみ、憎しみなどの感情さえ、脳の化学物質のやりとりで表出されていると考えられています。

このように科学的に生物を理解するならば、そこに「魂」は存在しません。
神様も仏様も私たちの命とはかかわりありません。
死は、固体の細胞活動の終焉であり、それらはばらばらに壊れて無意味な物質になります。俗にいう「土に帰る」ということです。

脳の活動が永久に停止したとき、精神的な意味でもその個体の存在は消滅します。
IPS細胞ですべての臓器を再生できるようになったとしても、脳を新品と交換してくれとは誰も思わないでしょう。脳を交換したら、それまでの記憶や知識はすべて失われ、別人になってしまうからです。神経学者の研究の究極的な課題は、脳の老化をいかに防ぎ、若々しい思考回路を永遠に維持できるかということです。それができれば、古くなった他の臓器を交換し続ければ生き続けられるわけです。
まあ、そこまで科学が進む前に私は確実に死にますから、しょせん夢物語に過ぎません。

死というものは、生命活動である核酸からタンパク質を合成という活動ができなくなり、固体が生物でなくなるということです。そこには魂も死後の世界もありません。お墓の中に死んだ私はいません。お葬式は生き残っている人が、死んだ人を悼むためのセレモニーであり、お墓はそのモニュメントなのです。

今、ある過激な宗教集団では、宗教のために戦い、殉死すれば、来世は神に祝福され幸せに暮らせるというような思想で子どもたちを洗脳し、テロや戦争に動員しています。子どもたちには、「死後がない」ことを教育し、生きることの大切さを教えなければいけません。「死後の世界」は死にたくないけど生物の運命によって死ななければならない人たちを精神的に救うために考えられてきた思想だと思うのです。
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